【キャンティの歩み】暗闇に光が

(本記事は、1990年4月15日にChianti 30周年を記念して刊行されたヒストリーブック、「キャンティの30年」より転載しています。)

キャンティの歩み―村岡和彦

「暗闇に光が」

 

いまも変わらないのはキャンティだけか。

 

六本木およびその周辺は、いちじるしく様変わりしてしまった。

 

昭和30年代の前半、小学生だった筆者が六本木の交差点に立ってみても、これといったビルなど見当たらず、辺りは静まりかえっていたという覚えがある。街はまだ「戦後風景」を引きずっていた。角にぽつんと誠志堂があり、向かいのマイアミが入っている小さなビルは、当時たしか文具屋だった。装いを変えたが、俳優座の以前の建物が、わりあいモダンな感じがしたくらいである。モータリゼーションの波も押し寄せていなかった。車も少なく、新橋―渋谷間の都電がのんびりと走っていた。

 

ところが最近では、ビルが林立し、朝から人が行き交う。黄昏どきともなれば、そこかしこでネオンがまたたき、ディスコやクラブなどナイト・ビジネスの主戦場と化す。その賑わいは真夜中、いや明け方までつづき、それも連日連夜繰り返されている。

 

この辺りが不夜城の観を呈するようになったのは、オリンピックへの前奏曲によってだった。戦後の混乱期をへて、高度成長経済の時代に入ったわけだが、その象徴ともいうべきが昭和391964)年の東京オリンピックだった。それに先立つ昭和331958)年には東京タワーが完成。美的には論外だか、ともかく333メートルの高さだけは、パリのエッフェル塔をしのぎ世界一。外人客に恥ずかしくない街づくりをの大号令で、路面電車は遅れているとばかりに、都電の撤去がはじまったのが昭和351960)年。地下鉄日比谷線が開通し、六本木駅ができ、またオリンピック関連道路には歩道橋が跨ぎ、六本木や飯倉片町には高速道路が走るようになった。こういった立体化により交通量が増え、六本木はしだいに大衆化して、ひとつの盛り場となったのである。

 

(飯倉通り  1960年)

 

町名変更も行なわれた。由緒ある、趣のある名前がつぎつぎと消えていった。麻布は西、南などと安易に分けられ、筆者が子供のころ親しんだ麻布笄町、麻布霞町、麻布材木町は西麻布、麻布本村町は南麻布となった。麻布飯倉町、麻布飯倉片町は麻布台にという具合である。また麻布竜土町、麻布簞笥町は六本木に吸収されてしまった。

 

これからの物語は、そのように世の中が味も素っ気もなくなってしまう前の話である。以後、筆者は一歩身を引き、意外に知られていない、いずれ記憶の彼方へと消え去ってしまうだろう事実にあくまで重きをおき、話を進めていきたい。

 

六本木や麻布のある港区は坂の多いところだ。都内の486の坂のうち、108が同区内に存在するという統計がある。鳥居坂、永坂、暗闇坂、仙台坂、狸穴坂、南部坂・・・・・・。それぞれの名称には由来があり、たとえば鳥居坂は氷川神社の二の鳥居があったから、あるいは坂の上に、江戸期に鳥居左京亮の邸があったからというふたつの説に分かれる。いまやマンションばかりになってしまったが、昭和30年代には、この坂の町には戦前からの屋敷もかなり残っていた。樹木が生い茂り、緑豊かなところでもあったのだ。

 

また、これも統計数字によると、都内の在日外国公館のほぼ50パーセントが港区に集まっている。ソ連、フランス、オーストリアの各大使館など、とくに麻布地区には多い。昭和30年代には竜土町に、都心唯一の米軍基地だったハーディバラックスがあり、彼らアメリカ兵を客とするクラブ・ゴールデンゲートが飯倉に。シシリア、ニコラス、ハンバーガーインといった横文字の看板を出す店もちらほら。「東京租界」と呼ばれたゆえんだが、それでも夜は真っ暗で、歩くには懐中電燈が必要といわれたくらいだった。隔世の感がする。

 

麻布飯倉片町、いまでいう麻布台3丁目のこの暗闇に、昭和35(1960)年4月、ひとつの灯がともった。物語の主役、レストラン キャンティの誕生である。

 

(六本木俳優座劇場 1959年)

(六本木交差点 1959年)

 

いわゆる60年安保の年だった。日米安保条約の改定を阻止しようと、国会へ、街頭へと連日デモ隊が繰り出し、岸内閣は倒れんとしていた。世情は騒然としていたが、そういった政治の次元ではない。つまり文化ひいては風俗の面で、キャンティもまた「変革」の一翼を担おうとしていた。といってもいい過ぎではないだろう。

 

この国には見られなかったスタイルの店だ。レストランとはいえ商売は二の次で、自立した、個性を持った客が多く集まった。思想的には右もいれば左もおり、年輩者も若者も、店内は弁舌、機知、洒落と、彼らがかもしだす熱気に満ちていた。そんなキャンティをある人はパリのカフェ・ドゥ・マゴに通じ、知識人も芸術家も芸能人も来る、都市の核のようになりおのずと文化が集積し、それがうまく横のつながりをつくって、新しい文化を生んでいったと表現する。平たくいえば、この店を基点に無名人は名を成し、有名人はより有意義な仕事に取り組みえた、そういうケースが多々あったということだ。「ちょうどキャンティがオープンしたころ封切られた、イタリア映画の『甘い生活』。あの店には、そういうヨーロッパ風の甘い生活の雰囲気もありました」

 

こう振り返るのは、元毎日新聞論説委員、評論家・古波蔵保好である。『甘い生活』といえば、フェデリコ・フェリーニ監督の代表作であり、富裕で優雅で退廃したブルジョア生活を描き、波紋を巻き起こしたものだ。

 

(六本木交差点 1962年)

 

古波蔵は夫人の服飾評論家・鯨岡阿美子と共に、足繁くキャンティに通った。「家内は亡くなりましたが、あんなに思い出のある店は他にない。六本木のはしりで、文化的役割を果たしています、あのご夫婦は」

 

あのご夫婦というのは、キャンティを開いた川添浩史、梶子である。この物語の一方の主役は店と客であり、もう一方の主役は浩史、梶子、それに長男・象郎、次男・光郎の川添ファミリーなのである。

 

 

ー「キャンティの30年」(1990刊行)P.54-59より

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