【キャンティの歩み】ブティックとディスコ

(本記事は、1990年4月15日にChianti 30周年を記念して刊行されたヒストリーブック、「キャンティの30年」より転載しています。)

キャンティの歩み―村岡和彦

「ブティックとディスコ」

 

 

「東京で、いえ日本で最初にブティックと名乗ったんです。店ではあの三宅一生さんの服をつくったこともありました。いまの有名なデザイナーのひとたちへの影響は、かなりあったと思います」

 

ベビードールでデザインを担当し、長年川添梶子の傍にいた竹山公士は控え目ながら、しかしきっぱりという。年齢は40代半ば。ベビードールの閉鎖後、ニューヨークに渡り、ロバート・キャパの弟であるコーネル・キャパが理事長を務める、有名な写真学校ICP(インターナショナル・センター・オブ・フォトグラフィー)で学び、いまカメラマンになっている。竹山にはニューヨークに赴き、話を聞いた。

昭和35(1960)年レストラン・キャンティの開店と同時に、表通りに面したビルの1階に、ブティック・ベビードールもオープンしている。確かに竹山のいうように、いまでこそブティックはあちこちにあるが、30年前には一般には誰も、ブティックという言葉さえ聞いたことがなかった。洋品店であり、雑貨店でありという時代だったのである。

このベビードールの主は梶子だった。ブティックという肩書きも彼女の発案による。

鉄のフレームの、一枚ガラスのドアを開けて店内に入ると、ショーケースやディスプレーケースが並んでいた。そこにさりげなく置かれているのは、どれも輸入物の高価な品ばかり。ブラウス、セーター、ハンドバッグ、ネックレス、ブレスレット、それに西洋雑貨の数々。たとえばバッグはと見ると、その頃やはり一般には知られていなかった、グッチやエルメスといったブランド品だった。雑貨のほうに目を転じると、イタリアのマジョルカの皿などというのが。キャンティ同様、ここにもまたヨーロッパを想わせる雰囲気があった。

 

もうひとつ、ベビードールが客を魅きつけたのは、オートクチュールによってだった。デザインや縫製の作業をするため、アトリエも設けられた。で、そのデザインだが、これもまた梶子がみずから手掛けたという。

「彫刻の学校には通われましたが、とくにファッションのデザインを勉強されたことはない。ですが、美的センスに優れていて、服とかお洒落がすごく好きでした。それに川添浩史さんの関係から、イヴ・サンローランやピエール・カルダンといった壮々たる方たちと親しかった。だから、オートクチュールのデザインも出来たわけなんです」(竹山公士)

川添も梶子も知的だった。しかし、いわゆる知識人の教養主義とは一線を画し、このようにヨーロッパの食文化、服飾文化と、とくにサブカルチャーの紹介に努めたのである。

ベビードールはビルの入口に位置していた。レストランのキャンティに行くためには、このブティックを通り抜けなければならない。食事に来た客も、ついつい珍しい洋品雑貨に目を奪われ、買い求めてしまう。だからベビードールの客はキャンティと重複していたが、

「よく見えたのは、越路吹雪さん(歌手)、八千草薫さん(女優)、久我美子さん(女優)、上月晃さん(女優、歌手)、それに名前まで存じあげませんでしたが、財界人の奥さま方。岡田真澄さん(俳優)、今井俊満さん(画家)、三島由紀夫さん(作家)。たまに黒沢明さん(映画監督)も見かけました」(竹山公士)

毎日昼ごろに店を開き、閉店は夜中の2時過ぎだった。値段だが、一例をあげればバッグ類は2万円以上、グッチやエルメスとなると3万円から3万5000円だった。竹山が店に入ったのは東京オリンピックの前の年、昭和38(1963)年である。バッグひとつにこれだけ支払える層は、まだ少なかった。

宝塚のスターだった上月晃は、梶子が彼女のファンだったことから親しくなった。東京公演で上京するたびに、ベビードールに駆けつけ、舞台衣装もふだんの洋服も梶子に助言を仰いだ。「サンローランのファッションに通じるシンプルなところが、梶子さんの持ち味でした」とのこと。ベビードールでは着物まで置くようになったが、「はっきりした色で、着物と帯がきりっとバランスがとれているもの。これもシンプルな感じの組合せを勧めてくださって」という。その宝塚へ、大阪へ、梶子は自分の黒いジャガーで行ったり、タクシーに乗って帰ってきたりの大胆さだった。

さらに梶子はパリの蚤の市に出かけていき、そこで仕入れた骨董品を、はじめのうちはベビードールに並べていた。が、手狭になったため、近くのビルの一室を借り、西洋骨董の店・十二番館を始めたのだった。

これらの店に、いつもひとりで入ってくる客がいた。慈恵医大に勤め、いまは葛飾区高砂で開業する医師・山崎順啓だ。

「最初にベビードールで買ったのは、メキシコ製のキーホルダーでした。それ以来、キャンティに行くと、必ず洋品雑貨のほうも見たものです。日本で西洋骨董を売っているのは十二番館くらいでしたから、あそこでもいろいろ買いました」

30年来の個人的なファンがいるというのも、キャンティの恵まれた点だ。

 

昭和39(1964)年には東京オリンピックが開かれた。

この年、フランスのカンヌ映画祭では、勅使河原宏監督の『砂の女』が話題になった。大手映画会社による5社協定があり、独立プロ製作の彼の作品は出品を危ぶまれていたにもかかわらず、向こうの映画界に顔が広い川添浩史が力を尽し、招待作品となった。しかも川添はみずから現地に赴き、モデルの入江美樹や女優の加賀まりこを呼び寄せた。勅使河原など全員でジジ・ジャンメールのショーに繰り出したり、パーティを開いたり、大いにデモンストレーションに努めたのである。その結果、グランプリこそ『シェルブールの雨傘』に持っていかれたが、『砂の女』は審査員特別賞を受賞したのだった。

「ああいうコンペで賞を取るためには、作品の質はもちろんのこと、一方では宣伝活動が必要なんです。その総指揮を川添さんにしていただいた」(勅使河原宏)

 

オリンピックという戦後最大の宴も終わった明けて40(1965)年、イギリスですでに人気だったロックグループ、ザ・ビートルズが日本の若者たちを熱狂させた。翌年には来日している。梶子も、彼らの音楽の虜になったという。国際化とか情報の同時性が盛んにいわれるようになったのは、その頃からだ。同じくイギリス生まれのミニスカートが、これもまた、たちまち日本の女性たちを席巻した。

川添浩史はこの間さらに、フジテレビと自身のアスカプロダクションの提携で、映画『天皇』(フランシス・ハール監督)を製作し、ジェローム・ロビンス演出の『ウエストサイド物語』の東京公演などをプロデュース。一方では、以前からフランスのファッションの紹介には力を注いできたが、クリスチャン・ディオールのショーを光輪閣で開き、ディオールから独立したイヴ・サンローランの日本での総代理店に、梶子のベビードールを据え、その上ピエール・カルダン他と、日本の繊維メーカーや百貨店の提携の仲介をした。

「いま、輸入ブランドが全盛ですが、その誕生のきっかけをつくった。川添さんは先駆的な役割を果たしていると思います」(取材時の鐘紡副社長・遠入昇)

ザ・ビートルズの影響で昭和40年代はじめ、日本の音楽の世界では、グループ・サウンズがブームとなった。音楽に止まらず、彼らの髪型や衣装も若者たちの心を捉え、ひとつの風俗現象と化したのである。

主なバンドの衣装を手掛けたのもまた、ベビードールだった。きっかけは、梶子のもとでデザインを手伝うようになった竹山公士が、たまたま着ていたグレーの三つ釦のスーツ。彼がみずからデザイン画を描き、仕立屋に注文したものだ。これをワイルド・ワンズの加瀬邦彦が目にし、「同じ服をつくってもらいたい」といってきた。そのままステージ衣装になったわけだが、好評で、噂が噂を呼び、シンガー・内田裕也が売り出しに力を入れていた、沢田研二や加橋かつみのザ・.タイガース、田辺昭知、かまやつひろしといった六本木族がメンバーのザ・スパイダース、萩原健一のザ・テンプターズなど、ベビードールがつぎつぎとグループ・サウンズのコスチュームを担当することに。ザ・タイガースのヒット曲『モナリザの微笑』で話題になった、黒のベルベットのジャケットに、鎖を垂らし、白いパンツという斬新な衣装は、梶子の手になるものだ。

思うに、テレビ時代にふさわしく、音楽の世界に初めて見る楽しさを加味したのは、梶子とベビードールのスタッフといえよう。加えてこのときから、ファッションに限らず、梶子は加橋はじめグループ・サウンズの若者たちのよき助言者ともなった。

「食べ物屋なら食べ物屋だけやり、ブティックならブティックだけやるというのがふつうでした。あの頃1階にブティックがあって、地下と2階にレストランがある二重構造の事業は、めずらしかったと思います」

当時の春日商会社長・川添光郎は思い返して、こういう。

キャンティや川添ファミリーについて書いていると、日本で最初の、めずらしかった、先駆的、パイオニアと、同じような意味合いの言葉が並んでしまう。要は「初めてづくし」になるのだが、日本ではじめてディスコを開いたのは、この川添ファミリーだった。

パリのマキシムで修業していたとき、キャンティの常連客の画家・今井俊満がちょうど向こうにおり、ディスコテークなるところに案内してもらった。「これは面白い」と、帰国後、ちょうどキャンティのビルの3階が空いていたから、浩史の勧めもあり、そこで見よう見まねでディスコを始めたのである。昭和41(1966)年、光郎は23歳だった。店の名前は「小さなキャンティ」という意味からキャンティッシモ。

(キャンティッシモの内部 遠入昇氏〈中央〉 1965年)

(キャンティッシモ ビュッフェパーティにて 川添梶子)

 

「連日連夜満員で、立錐の余地がないくらいお客さんが入りました。ザ・シュープリームスやザ・テンプテーションズのソウルミュージックを流し、自分でディスクジョッキーまでしたんです。私が日本で最初のDJかもしれません」

やがて法的規制で、3階での営業は不可能になった。そこで六本木5丁目にザ・スピードを新たに開店したのだが、大手資本が進出するようになり、ディスコ経営は諦めざるをえなくなった。光郎の若き日の冒険譚である。

 

昭和40年代といえば、いよいよクルマ社会の到来だった。都内の自動車登録台数は、昭和34(1959)年には24万台にすぎなかったが、40(1965)年には100万台を突破している。

同時にこの時期は、モータースポーツの黎明期でもあった。すでに昭和38(1963)年には、第1回日本グランプリが開催されている。キャンティの「第二世代」の常連客も、レースに夢中になった。とくに熱を入れたのは生沢徹(父は挿し絵画家・生沢朗)、福沢幸雄(福沢諭吉の曾孫)、式場壮吉(一族は病院経営)、三保敬太郎(作曲家)、石津祐介(父は当時VAN社長・石津謙介)、それにミッキー・カーチス(シンガー)といった面々。モータースポーツはまだ大衆化されておらず、資本もかかるだけに、それを楽しむのは裕福な家庭の若者や、売れっ子タレントに限られていた。日本グランプリの出場者はキャンティ族ばかりといわれる状態がしばらくつづいたくらいだった。

(福沢幸雄氏  川添象郎、光郎)

 

その中で、生沢徹は昭和40(1965)年の第3回グランプリに優勝し、日本の第一人者の地位についた。8年間にわたってヨーロッパを転戦、45(1970)年にはヨーロピアンF2(ホッケンハイム)で2位に入賞した。いま、その弟子筋の中嶋悟がF1で活躍している。

もうひとりの花形レーサー、というよりレーサー、ファッション・デザイナー、モデルと幅広くこなし、さらにはテレビにも出演。新しいタイプのマルチ・タレントの名をほしいままにしたのが、福沢幸雄だった。音感にも優れ、語学力もあり、若い女性に人気で華やかなスポットライトを浴びていた。

その福沢が、突然逝った。

トヨタ車に乗り、テストコースを疾走中、なぜか急に暴走。コースをそれ崖に激突、車は大破し、炎を上げる。即死だった。昭和44(1969)年2月12日。

まだ25歳の、若い福沢の事故死は、第二世代の仲間たちの心を激しく打った。茫然とするのみだった。

ライバルといわれた生沢徹はいう。

「ヨーロッパから帰ってくると、必ず電話がきました。お帰りと。人柄のよさを感じて」

また、福沢と親しかったモデル・松田和子は、つぶやくようにこういう。

「彼の死で、青春は終わった。私だけではなくて、六本木族、キャンティ族といわれた仲間はみんなそうだと思うんです。あのことがきっかけで、それぞれの道で頑張るようになった、ずっと頑張ってきた」

 

 

ー「キャンティの30年」(1990刊行)P.102-110より

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