【キャンティの歩み】六本木族とは

(本記事は、1990年4月15日にChianti 30周年を記念して刊行されたヒストリーブック、「キャンティの30年」より転載しています。)

キャンティの歩み―村岡和彦

「六本木族とは」

 

 

東京オリンピックを前に、昭和30年代後半、「もはや戦後ではない」という声も出てくるようになった。生活はしだいに豊かになり、若者たちの価値観も大きく変わろうとしていた。コカコーラを飲み、米映画『ウエストサイド物語』や『草原の輝き』を観る、あるいはしかつめらしくファンキーなジャズを聴き、フランスの実在主義を論じる。欧米、とくにアメリカの風俗文化が日常化していったのである。

表向きはともかく、六本木の夜の世界も華やかな装いをこらしはじめていた。以前には考えられなかったことだが、たとえば深夜レストランに若者たちが集まるようになった。アイビー・ルックの男の子が、女の子の肩に手を掛け、ジュークボックスから流れるポール・アンカやニール・セダカの歌を聴いている。彼ら六本木に遊ぶ若い男女を、マスコミが命名したのだろう「六本木族」とはやしたてるようになった。

いかにも戦後派の、この六本木族のメッカともいうべきが、キャンティだった。もっとも10代ないし20歳そこそこの、キャンティの「第二世代」の常連客である当人たちは、六本木族と総称されるのは不本意だったようだ。プライドがあった。他の店とは違う、文化のあるサロンに通う、自分たちはむしろ「キャンティ族」だという。

ここでは一般的に六本木族と呼ぶことにするが、この若者たちのいわば父にあたるのが川添浩史であり、事実川添のことを、彼らは「パパ」と呼んでいた。また梶子のほうは母、あるいは叔母、あるいは姉であり、愛称は「タンタン」(イタリア語で叔母を指すくだけた表現)。そのうち梶子は「謎の女」「不老の美女」「社交界の令夫人」「六本木の女王」と、マスコミ雀から数々のタイトルを冠せられるようになる。当たっている部分もあった。低い声でゆっくり話したが、その口許からこぼれる、まるで少女のような真っ白な歯。これは歯を削り、陶製の義歯を被せるという手術によるものだ。もちろん気持ちも若かった。また光輪閣やマキシム東京店で開かれるパーティーなど、社交の場にもしばしば姿を見せたのだった。

六本木族の中には、当の浩史の長男・象郎と次男・光郎もいた。ただし象郎のほうは、六本木族がもっとも騒がれた頃には、アメリカ暮し。家が近いこともあり、キャンティ開店以前の高校時代からこの街をよく知っていたから、六本木族のはしりであり、やがて帰国して六本木族の終息を見守った人というほうが、より正確である。

兄には、父のプロデューサーとしての血が色濃く出たようだ。弟の川添光郎のほうは春日商会を引き継ぎ、社長として、経営に専心した。

次男の光郎は昭和17年9月3日の生まれ。兄と共に幼稚舎から慶応でラサール高に転校した。

「父が鹿児島まで会いに来ました。兄と3人で桜島に行き、一緒に風呂に入ったり、食事したり。そのとき、お前たちのお母さん(原智恵子)とはこんど正式に離婚した。しかしこれからも彼女がお母さんだ。こんど再婚するが、その人(梶子)はお母さんではないんだから、おばさんとでも呼べばいい、というんです」

ふつうなら梶子のことを母と呼ばせるだろう。が、いかにも川添浩史流の筋の通った話である。梶子は自分のことをタンタンといっていたから、象郎と光郎もそれに倣うことにした。

光郎は兄より1年遅れて帰京し、父が麻布笄町に構えた新居から、森村学園に通うように。卒業後、成城大学文芸学部に入学したが、在学中より、主にベビードールの仕事を手伝うようになった。パリのマキシムでしばらく修業し、その後社業に力を注ぐことになった。

なお、浩史の戸籍上の名は紫郎だが、姓名判断により浩史と改名。象郎、光郎も一時は象多郎、光倶(みつとも)と名乗っていたが、また元に戻している。

 

あらためて、川添兄弟は六本木族のはしりだったというのは、田辺エージェンシー社長・田辺昭知である。

「キャンティが開店する前ですから、18歳か19歳の頃。夜、仲間と六本木の交差点のところのシシリアでピザを食べていると、僕たちより若いのがいるので驚いた。だいたいシシリアには、ティーンエージャーはいなかった。それが象ちゃん(象郎)と光ちゃん(光郎)。高校生だったはず。大人子供といったらいいか、めずらしい兄弟でした」

これは父・浩史には納得できた。少なくとも否定はしなかった。日頃から「子供の心を持った大人、大人の心を持った子供」が口癖で、そういう生き方をよしとした。前者が自分や梶子、後者が象郎や光郎ということになろう。一般家庭とは異質のモラルだ。

昭和30年代の後半、若者が外国に行くといえば留学くらいだった。その頃川添ファミリーは、家族全員でヨーロッパ旅行をしている。

「象ちゃんはニューヨークにいたから、そこからパリに飛んで合流したのか。好きに食べていい、しばらく店を見ていてくれないかとパパ(浩史)に頼まれた。その間一ヵ月、いらっしゃいませ、とにわか店長をやった覚えがある」

シンガーのミッキー・カーチスの言だ。海外旅行に関しても、川添兄弟ははしりだったのである。

キャンティの「第二世代」の客たち。その青春群像だが、年齢的にも先輩格にあたるのが、かまやつひろしや、このミッキー・カーチスと田辺昭知である。シンガー・かまやつひろしは、その頃もっぱらカントリー&ウェスタンを歌っていた。川添兄弟と顔見知りだったから、キャンティには開店初日から通い、川添の自宅に1年間居候していたこともある。かまやつ夫人も、一時ベビードールでアルバイトをしていた。浩史、梶子と、若い常連客たちの間には、そういった家族的雰囲気が漂っていた。川添家には鍵が掛かっていなかったという。みんな勝手に出入りし、飲みかつ食べ、泊り込んだりの「オープンハウス」だったのである。また、歌はむろんアメ横、ジーンズとアメリカ文化でそだってきた彼は、浩史、梶子の話からヨーロッパというものを教えられ、カルチャー・ショックを受けたのだった。

(笄町の自宅 かまやつひろし氏と)

 

ティーチャーズ・ペットならぬ、「キャンティーズ・ペット」と目をかけられた10代の女の子もいた。中でも小悪魔的ともてはやされ、奔放な言動で六本木族の代名詞のようにいわれたのが女優・加賀まりこである。昭和37(1962)年、映画『涙を、獅子のたて髪に』(篠田正浩監督)でデビューしたが、それ以前から店では人気だった。

「14歳か15歳でした。大人にまじって、いつも大人の話を目をきらきらさせて聞いていた。キャンティに出入りしているということで、何かエリート意識を持ってました。私の10代に、川添のパパとタンタン、あのおふたりが与えてくれたものはすごく大きい。自分に、自分の目指すものに忠実に生きなさいと人生の物差しというか、価値観を教えてくれたわけで・・・・・・」

キャンティの話をはじめれば、いくら時間があっても足りないともらし、加賀は懐しむ。

もうひとり、作詞家・安井かずみも「ペット」だった。

「(加賀)まりこがなぜペットになりえたかというと、美人だから。頭も利発で可愛かった。私はというと、年が若かったのと、フランス語が話せたからなんです。キャンティも川添家も、いってみればヨーロッパ文化圏でしょう。ヨーロッパからのお客さまも多く、そういう方たちとフランス語で話ができるもので、梶子夫人が大事にしてくれたんです。あの方の自宅で毎週、石井好子さん(シャンソン歌手)と一緒にイタリアの家庭料理を習ったこともある。料理、本当に上手でした」

安井かずみはその頃文化学院の学生だった。MGはじめ外車のスポーツカーを乗り回していた。昼間、帝国ホテルのテラスで友人と待ち合わせ、シルバーダラー・ケーキを食べ、銀座で買い物をしたり、日比谷で映画を見たり。夜はキャンティに行くというのが、毎日のパターンだった。そして休暇には、ゴルフ、テニス、スキー、車のレーシング。一般の若者たちの遊びとはかけ離れていた。昭和30年代はじめの湘南の太陽族とは、また色合いの違う経済的な豊かさが、その背景にはあった。

元ファッションモデル・松田和子は、当時すでにトップランクだった。

「一寸迎えに来てと頼むと、静岡辺りまでキャデラックで急行してくれるお坊ちゃんもいたんです。キャンティのお客さんはみんな女の子に親切でした」

その後彼女はフランスに渡り、初の日本人モデルとして、クリスチャン・ディオールを経てルイ・フェローの専属となっている。

同じモデルの入江美樹、それに芳村真理、小川知子、いしだあゆみといった女優や女性タレントもよく顔を見せた。また芸能予備軍というべきか、10代の六本木族から人選して結成されたのが「野獣会」だ。これを組織したのは現在、渡辺プロダクションの会長を務める渡辺美佐。女優・大原麗子をはじめ、タレント・ジェリー藤尾、歌手・田辺靖雄などはこの会の出身である。

「20人以上いました。田村町の飛行館にあった私どものスタジオに、野獣会の事務所を設けたんです。演技指導や歌のレッスンを受けさせました。六本木族の中から選ばれたと、みんな気位が高かった。これは野獣会に限らないんですが、夜、仕事が終わると、所属タレントを連れて、毎週のようにキャンティに行きました。食事をして、そこで打ち合わせもして」(渡辺美佐)

キャンティに行けば、必ず芸能界の関係者がいる。デビューできるに違いない。スターを夢みて、全財産をはたいてキャンティ詣でをする、折からの高度成長の落し子のようなティーンエージャーさえいた。もはやキャンティ神話の域である。

 

象郎、光郎の川添兄弟の、慶応、成城、和光、森村といった学生時代からの友人も、盛んにキャンティに通った。作曲家・村井邦彦、アルファキュービック社長・柴田良三、石亭開発社長・羽根田公男、ノースウエスト航空マネージャー・馬忠仁、山田平安堂専務・山田和三郎。彼らの話から拾うと——。

いってみればキャンティは、川添浩史と梶子のそれぞれの人生が滲み出し、つくり上げられたものだ。本場のイタリア料理店を、そのまま東京に持ってきたのではない。イタリアンレストランというより、だから日本で出来上がったひとつの文化である。単純な外来文化とは違い、川添家のオリジナル文化であった。ある者は、こう説く。

また、若くて多感な年頃だったから、父親たちのツケで、赤坂のラテンクォーターやコパカバーナといった高級ナイトクラブにも遊びに行った。しかし最後はいつも、キャンティへ帰ったという。

そして象郎、光郎の兄弟抜きで、浩史と銀座どころか熱海まで遊びに行ったことも。文字通りパパ、いや自分の父親以上の存在だったとの声さえある。

浩史はいった。

「人間は何ものからも自由である。しかし世の中を生きていくためには、何か力を持っていないといけない。金儲けもひとつの力だが虚しい。その際絵でも音楽でも、美というのはじつに大きな力になり得る」

と。

梶子は梶子で、若い彼らを一人前の人間としてきちんと扱った。感性が優れているだけでない。思いやりもあった。ヨーロッパ、とくにイタリアに関する造詣が深く、彼女の心のふるさとはやはりイタリアと窺えた。

一緒にヨーロッパに行き。車で旅をすると、ローマに入っていくには、アッピア街道のほうがこの町がきれいに見えると、そういう演出までしてくれた。また、イタリアのルネッサンス全体、フィレンツェのそれだけではない、ベニスの、ローマのルネッサンスはこうこうだったと、じつに深い知識を持っていたという。イタリア美術やイタリア人の美的観念を知り尽くしていた。向こうでの青春時代、古いアパートで暮らしたのだが、その重さとか、暗さとか、よく思い出話を語ってくれたのだった。

——つまり川添浩史と梶子は、面と向かって説教がましくではない。「人生というもの」「文化というもの」を物静かに、あるいは旅や遊びを通じて間接的に、彼らに諭したのだ。服飾評論家・石津謙介は頷き、こういう。

「象ちゃんも、光ちゃんも、その仲間たちも非常に自由奔放だった。時代の先端を走っていたわけですが、それだけに当時の日本では受け入れられなかった。ミッキー・カーチス、かまやつひろしの両君にしてもそうで、社会的信用がなかった。ところが彼らの背後には川添さんのお父さんが付いている。立派な柱がある。だからこそ世間に信用され、才能を発揮することができ、今日があるんです」

この若者たちの仲間だったひとりの男は、すでにこの世にはいない。福沢幸雄といった。

 

 

ー「キャンティの30年」(1990刊行)P.93-101より

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