【キャンティの歩み】サロンの客たち

(本記事は、1990年4月15日にChianti 30周年を記念して刊行されたヒストリーブック、「キャンティの30年」より転載しています。)

キャンティの歩み―村岡和彦

「サロンの客たち」

 

 

中央に大きなテーブルがあり、そこにいつも銀髪の川添浩史と、流れるような黒髪の梶子の姿があった。紫煙にけむるなか、ふたりは一緒に、あるいは別々に、親しい客と談笑していた。地下のほうはともかく、キャンティの2階には、ある種常連客以外は寄せつけない独特の雰囲気が漂っており、それこそサロンだった。

川添浩史は昭和37(1962)年には、文楽の一行を連れ、団長としてシアトルの世界博に赴いている。またプロデューサー活動の足場として翌年、キャンティの近くにアスカプロダクションを設立した。しかしふだんは光輪閣の仕事を2、3時間で片付け、店にやって来ると真夜中までそこにいた。

サロンの主にふさわしくないというべきか、川添には浮世離れしたところがあった。春日商会の瀬崎嘉久がいうには、銀行に融資を受けにいったとき、どう手続きをしたらいいか当人は知らないから、瀬崎が付いていった。その帰り道にたまたまバスに乗った。すると料金を払わないで、川添はさっさと降りてしまう。呆気にとられる瀬崎を横目に、「初めてバスというものを利用したが、最高だ。運転手付きなんだから」とひと言。いつも自分で車を運転していただけに、よほど便利に思えたらしい。

 

(ベビードール トニー谷氏 伊藤道郎氏と)

 

昭和34(1959)年、皇太子成婚の中継を見ようと、テレビの売れ行きが急増した。翌年にはカラー放送がはじまったが、そのテレビや新聞雑誌でよく見かける顔が、つぎつぎとキャンティに客として現われた。

皇族では高松宮、常陸宮、島津貴子。また河野一郎、川島正次郎、大映の永田雅一、フジ・サンケイの鹿内信隆、若手では堤清二といった政財界人も。文化・芸能人となると、枚挙にいとまがない。作家・井上靖、三島由紀夫、柴田錬三郎、映画監督・黒沢明、谷口千吉、勅使河原宏(草月流家元)、ハリウッド俳優・早川雪洲、女優・八千草薫、新珠三千代、久我美子、舞踊家・吾妻徳穂、歌舞伎俳優・中村富十郎、演出家・浅利慶太、作曲家・團伊玖磨、黛敏郎、シャンソン歌手・石井好子、写真家・秋山庄太郎、画家・岡本太郎、今井俊満、建築家・黒川紀章・・・・・・。政財界人の溜り場、銀座の高級クラブ・ラモールの経営者である花田美奈子もよく姿を見せた。

大使館員など、外国人の客も多かった。海外からのスタークラスでは、シャンソン歌手で俳優のイヴ・モンタン、歌手のフランク・シナトラ、同じくナット・キング・コール、女優のシャーリー・マックレーンと、その夫でプロデューサーのスティーブ・パーカー、それにパントマイムのマルセル・マルソー、写真家のカルチェ・ブレッソン、ファッションデザイナーのイブ・サンローランやピエール・カルダン等々。

店のサイン帳に残した言葉から拾うと、〈プロテニスの帰りに 島津久永・貴子〉〈春惜しむブラックタイの慇懃に 三島由紀夫〉〈忘却とは忘れ去ることなり だが此処のお菓子の味は忘れられん 菊田一夫〉〈川添に——過ぎ去ってゆく時に対して、而も尚 1935年からの変わらない友情のために——カルチェ・ブレッソン〉〈キャンティのお料理は私のウエスト・ラインの上のほうには、とてもよいお友だち——だけど、ウエスト・ラインから下には大敵! シャーリー・マックレーン〉

年輩者も多いこれらの人たちは、いってみればキャンティの客の「第一世代」だった。

 

(カンヌ映画祭 前列左より 三好淳之 入江美樹 岸田今日子 勅使河原宏 加賀まりこ 諸氏)

 

川添や梶子は第一世代と、当時20歳前後だった若い第二世代を分けへだてしなかった。アルファキュービック社長・柴田良三はいまでも感銘を受けているといい、こんな例をあげる。

「ある要件で、川添浩史さんと僕が店で話していたんです。そこに高松宮様がおいでになられた。話が長引いてしまったんですが、そうしたら川添さんは宮様に向かって、いま、この青年と大事な話をしているから、ちょっとそこでお待ちいただけますか、といわれた。高松宮様を待たせてまで、僕のような若造と話してくれる。およそおべっかなんか使わない。男として、骨があるというか・・・・・・。暗黙のうちに、人生何が大事で何が不必要かを教えてくれました。川添さんのような大人になりたいと思ったものです」

浮世離れした面もあったが、川添は頑なまでに筋を通す人だった。

 

(写真家フランシス・ハール氏の家族とピクニック)

 

ここでまた、店の人たちの話を聞く。キャンティの開店以来30年も勤め、やはり名物ウェイターといわれる石井勇、横田定吉、それに春日商会取締役営業第一部長・志澤哲也の各人の語るところでは——。

店が終わるのは、毎日明け方の4時ごろ。従業員たちは終電ではない、店のすぐ前を走っていた都電の5時過ぎの始発に乗って帰ったという。閉店後、広尾の川添の自宅に行って、梶子も混じえ、飲んだり食べたりしたこともあった。

ウェイターの制服は、最初はマオルックのような詰め襟で、白地に青い細い縦縞が入っていた。つぎには真っ白なジャケットになり、グレーという時期もしばらくあったが、やがていまの白いボーイコートに。

白いジャケットの頃、石井はそれを脱ぎ、ワイシャツ姿で店内を掃除していたところ、梶子に注意されたことがある。ワイシャツは向こうでは下着というわけだ。ソフトな川添、いくつになっても童女のような梶子も、料理の味や従業員のマナーには厳しかった。

が、社員旅行ともなるときわめて日本的で、もう無礼講だった。行き先も熱海や下田と一般的。宴会が終わるとみんなで街に繰り出して、3軒も4軒もハシゴをする。すべて川添ないし梶子の奢りだった。店では客がよく入れば大入り袋も出たという。ヨーロッパ風といっても、およそ向こう一辺倒のヨーロッパ気取りではなかったのである、いまさらだが。

夜、12時過ぎには銀座の高級クラブのホステスもかなり来た。店がはねたあと、「第一世代」の年輩客と連れだって来るのだった。また、海外の関係者の間でも店の名が知られるようになり、羽田に着いた外国人が、いきなり店を訪ねて来ることもあった。イタリア語、フランス語ならまだいい、ギリシャ語やスエーデン語で話しかけられ、面喰らうこともしばしばだった。さすがと思ったのはナット・キング・コール。その頃桁違いに高かったジョニー・ウォーカーの黒ラベルを注文したとのこと。

常連客が多かっただけに、現金で支払いをする人は少なく、もっぱらサインで。当然焦げつきも出た。しかし、溜ったツケを、客がむりやり算段して払いに来ると、川添や梶子は「いいですよ」と押しとどめるのだった。

 

——以上は店の人たちの話だが、第二世代の客たちに聞いてみると、若い客の場合は「学割」といって料金をかなり安くしてくれ、中には「出世払い」などというケースもあったらしい。その結果、初期のキャンティは儲かっていなかった、という声も強いのである。

 

 

ー「キャンティの30年」(1990刊行)P.86-92より

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