【キャンティの歩み】開店のころ

(本記事は、1990年4月15日にChianti 30周年を記念して刊行されたヒストリーブック、「キャンティの30年」より転載しています。)

キャンティの歩み―村岡和彦

「開店のころ」

 

 

店の前には、浜松町—四谷三丁目間の都電が走っていた。

六本木のはずれ、飯倉片町、逓信省貯金局庁舎(元日本郵便株式会社東京支社)のはす向かいの白い小さなビルの地下にレストラン・キャンティが開店した。昭和35(1960)年春のことだった。

後で詳しく述べるが、1階にはブティック・ベビードールも同時にオープン。同年、両店の経営母体として有限会社春日商会が設立されている。

(ベビードールの店内 1961年ころ)

 

川添浩史は光輪閣の支配人としての務め、また対外的な文化活動に勤しんでいた。新たに、本格的なイタリア料理の店をはじめたいといい出したのは、梶子のほうである。戦後15年たっていたとはいえ、当時都内にこれといったレストランは皆無に近かった。美味な料理を供するのはもちろん、彼女自身そこに終日いて、気に入った客と語り、くつろぐ。そんなヨーロッパのサロン風の店を持ちたいと望んでいた。これこそ一軒もなかった。「自分が行きたい店がない。だから自分の行きたい店をつくる」というわけだ。単純といえば単純だが、考えてみれば大胆で、これほど贅沢な話もない。

川添にも異存はなかった。それというのも調理場などで働く光輪閣の職員の行末を案じていたからだ。終戦後の混乱期に、高松宮邸を迎賓館として使うようになったわけだが、あくまで暫定的なものであり、いずれ光輪閣は閉鎖され、取り壊される。新邸が建つであろう。そのとき職員の一部でもいいから、新しい店に引き取りたいと暗に考えていたようだ。周りには照れて「こんど店をはじめる。“西洋のおでん屋” みたいなもの」と説明している。

この “西洋のおでん屋” だが、店の名前はイタリア産のワインのブランド名からキャンティとすることに。店内の設計には、川添の年来の友人で、コルビュジェの最後の弟子であり、ドーム設計や吊り構造を早くから手掛けた建築家・村田豊があたった。これもまた贅沢な話である。いろいろな分野に手を染め、川添は顔が広く、仙台の造酒屋の知り合いは古い酒樽を送ってくれた。この杉の木でクラシックな感じの、といっても地下の狭い店だから3、4脚にすぎなかったが、テーブルをつくり、カウンターもつくった。

そして、天井のライトの傘は梶子の手作りだった。かつて彫刻家を志し美的センスのある彼女には、既製品のシェードでは物足りなかった。手先も器用だったから、自分で布を選び。自分でつくってしまった。段ボールを使った、ケーキ用の独特のパッケージも彼女の考案による。別に褒めそやすつもりはないが、字もうまく、キャンティという店名のロゴタイプなども、そのセンスでデザインされたものだ。これらはいまも店で使われており、古くからの客や従業員の間で語り草になっている。

やがて店は2階にも広げられた。そこではフランス料理も取り入れたが、店内は全体としては、イタリア北部の家庭を思わせる雰囲気となった。この日本離れしたところが、最初から多くの客を魅きつける、ひとつの理由となったのである。

「キャンティ開店の日も、私は店にいました。ああいうムードのところは、銀座にもなかったからです。各界のトップの人たちが集まる、60年代のインテレクチュアル・ビストロでした」

英語で語りはじめたのは、シンガー・ジェリー伊藤である。

「若い芸術家も大勢来ていました。ヨーロッパには、アーティストの卵が集まる小さなレストランがたくさんあるのに、日本にはまったくない。川添ご夫妻はそれが不満で、キャンティをつくったんでしょう。どんな仕事をしているお客さんも、みんな親切で、行けばエキサイティングで、店は仲間意識に満ちていました。梶子さんの英語は、本国人と変わりません。イタリア語もフランス語もじつにうまかった。川添ご夫婦と私の会話は、いつも英語でした」

(イヴ・サンローラン氏との会食 キャンティ本店2階)

 

料理も評判になった。

現在はこの飯倉の店は100坪、従業員は50人近くいるが、開店当初は20坪ほど、10数人にしかすぎなかった。中でも名物シェフといわれたのが、佐藤益夫である。イタリア、フランスなど各国の大使館の調理人を務め、光輪閣に手伝いに行ってるときに、川添の目に止まった。その腕を見込み、川添はマルタの、そしてこんどはキャンティの厨房を佐藤に任せることにしたわけである。

佐藤は当時、もう60歳を越していた。白いコックコートを着て、胸元には赤と白のタータンチェックのスカーフを小粋に下げていた。口べただったという話だ。

カニのポタージュ、スパゲティバジリコ、ラザニア、オーソブッコ、仔牛のミラノ風カツレツ、チキンのローマ風煮込み、それにカスタードプリンやパンプキンパイといった菓子類・・・・・・。キャンティの人気メニューは、「あのシェフは名人でした」(古波蔵保好)という佐藤他コックたちと、川添夫妻がああでもないこうでもないと意見を交し本場の味に近づけようとして、あるいは日本人の口に合うよう手を加えて出来上がったものだ。何年もかかりやっと仕上げられた自信作なのである。その頃、シソの一種であるバジリコの葉など輸入されているはずもなく、川添がわざわざ自宅の庭で栽培した。本格的なレストランという理由で、ピザはメニューに入れていない。

マルタ時代から佐藤の下で働き、帝国ホテルのコックを務める渡辺信吉、キャンティのシェフの森岡輝成、そして春日商会取締役総務部長の瀬崎嘉久の3名に、当時の厨房の様子を聞いてみた——。

それによれば、コックたちはイタリアに行ったこともなければ、イタリア料理もほとんど見たことも食べたこともなかった。ある料理を作る。それを口にした梶子に、よく「違うのよねぇ」といわれたそうだ。語尾を伸ばす、独特の言い回しで、「違うのよねぇ」というのだった。本も何もない。川添夫妻が口で説明したものを作るのは、容易ではなかった。川添浩史はみずから料理をすることはなかったが、梶子のほうはこれもうまかった。広尾の自宅を訪ねると、さっと素早く気のきいた手料理を作ってくれた。

梶子は口が肥えており、佐藤シェフは料理に凝る職人気質。コックたちは20代と若く、新しい料理をマスターしようと、おのずと研究熱心になった。氷細工などについても勉強したという。店は夜中の3時、4時まで開いており、調理場での「研究会」は閉店後だったから、たびたび朝帰りになった。厨房にも熱気がこもっていたのである。

店の雰囲気に、料理の味も相まって、オープン当初から満席になった。外で並んで待っている客も多く、寒くなると文句を言われる始末だった。

こぼれ話は他にもある。帝国ホテルで独身生活を送っていた声楽家・藤原義江は、ときに青ものの魚を食したかったのだろう。それはいいが、店に来て急に「イワシをください」「きょうはサバです」というのには閉口したそうだ。昼間なら魚屋に買いに行き、調理といってもただ丸焼きにするだけだから簡単だが、その煙が店内に流れ、他の客が「臭い、臭い」と騒ぐので困ったという。

ウェイターなど従業員用の食事も、佐藤シェフが作った。これもまた味がいいと評判だった。彼はデッサンが得意で、宴会用の肉の飾り方とか、ケーキのデコレーションのやり方などをメモ帳に下書きしていた。作れば捨ててしまう。森岡あたりはそれを拾い、じっくりと見て、佐藤流の方法を身につけていったのである。

良心的といおうか、牧歌的といおうか、佐藤の頭には材料費という観念が無かった。大使館育ちで、営利とは無関係な料理を作ってきただけに、原価を何パーセントに抑えるなどという考えは、つゆほども無かったのである。それに対し、川添も梶子もひとつも文句をいわなかった。美味な料理を出すためには、金に糸目をつけないというわけだ。材料には輸入物も多く、だからキャンティのメニューの料金は、どれも高かった。スパゲティのバジリコは200円からスタートし、数年後には300円になっている。ラーメンが30円から40円という時代であり、他の店でスパゲティを食べても、味は落ちるにしても、100円はしなかった。3倍である。(参考までに。当時タクシーの初乗りは80円、銀座からキャンティまで140円くらいだった。)

あるとき佐藤シェフは、「われわれは芸術家だから」と笑いとばした。当然値段も高くなるというわけか。

また外国人の客からは「カスタードプリンの味は世界一」「こういうブイヤベースを出す店は、世界中でキャンティだけ」という声も出た。従業員の間で、一時「世界一」といえばカスタードプリンを指したとのこと。

——彼らの話からわかるように、調理場にもキャンティの特徴が随所に見られたのだった。

取引先の人たちは、この新しい店をどう見ていたのか。果物や野菜を納めてきた根津商店・根津正明は、当時驚くことばかりだったという。

「贅沢な店だと思いました。その頃小豆が赤いダイヤなら、レモンは黄色いダイヤといわれたものです。1個100円もしました。生レモンを絞ったジュースを出していたのは、銀座の高級バーとあそこくらい。サンキスト・オレンジもめずらしかったんですが、それも使っていた。キュウリは曲がっていてもキュウリ。ところがいびつなキュウリはやはり味もまずいんです。店の人には、高くてもいいから真っ直ぐな、形のいいのを持ってきてほしいと口酸っぱくいわれました」

 

ー「キャンティの30年」(1990刊行)P.78-85より

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