【グローバリスト川添君を偲んで】前半

(本記事は、1990年4月15日にChianti 30周年を記念して刊行されたヒストリーブック、「キャンティの30年」より転載しています。)

グローバリスト川添君を偲んで―井上清一

 

 

 その頃のパリの南端にある大学都市(シテ・ユニベルシテール)の外にのびる石畳の街路沿いには、ルオーの初期の画に見るような場末のさむざむとした情景が残っていた。

 1934年秋、10月にしては晴れた朝、その大学都市の学生会館の図書館で、マルセーユに上陸するなり、南仏地中海沿岸のカンヌで晩夏を過ごし、初めてパリに着いたばかりの川添君と邂り会った。

 彼は1913年2月、坂本龍馬の思想をついだ明治維新の政治家後藤象二郎を祖父として生まれ、1歳の誕生も迎えぬ前に、彼の生母の意志も忖度されず、三菱銀行創設の功労者川添清磨氏の養子とされる。

 朝のコーヒーをすませたその朝、誰に紹介されるでもなく、互いに名のりあい、その時以来、川添君は私の生涯のもっとも信頼し、尊敬する友となった。

 当時、彼も私も学生運動の故に、日本の学園を離れてパリに辿りついた同じ人生体験が、彼に私を近づけたと言えば至極当然の話だが、本当は彼が持って生まれた純粋なもの、安心して心から触れあえる彼の素晴らしい個性が私の生涯にわたる彼との交友を決定づけたのであった。

 そして、その冬にはモンスーリ公園の正門を前に見て右に曲がるアベニュー・レイユ57番地、3階の家主のフランス人画家夫妻が住む白い壁の独立家屋の2階、寝室と小さなキッチンとシャワーのついたアトリエで、2人の共同生活が始まっていた。道路をはさんだ向い側は、石垣の上にコンクリートで蔽はれた水道の貯水池が眺められた。

 ヨーロッパのすべての学校の新学期が始まるのは10月である。彼は国立映画学校に入学。ところが日本で進歩的映画演劇活動の実際にも接し、エイゼンシュタインやブドーフキンの著書も知っている彼には、カメラの光学のABCからのクラスはまったくの期待はずれで、一週間もしない中にきっぱり離学を決心した。ところで確か当時の金で700フラン余りだった半年分の学費が、どう考えても勿体ない、2人で策戦を練った揚句、映画学校の灰色の壁の教務室にのりこんで、月謝の返却を懇願することになった。まことしやかに川添君が家庭の事情で突如帰国の破目におち入り云々と下手くそなフランス語で半月余り同じことを繰り返し先方は数名の事務員、先生諸氏が協議に協議をかさねて、不思議なことに、暮れやすいパリの秋の夕方、街灯のあかりがつき始める頃、全額奪還に成功、その夜はモンパルナスのクーポールで晩餐を奢ったのであった。

 学校を去ると、彼はマルク・アレグレの門を叩き、“乙女の湖”の製作に立ちあったり、ルネ・クレールを訪ねたりしていた。

 当時の彼の日本人の仲間といえば、きだみのる、コルビュジェの弟子板倉準三、岡本太郎、美術史の吉川逸治、仏文学者丸山熊雄等の諸氏であった。

 1935年、左翼劇場の俳優だった嵯峨善兵が誰かの紹介で川添君を訪れる。そして同じ船で再度のピアノの修業に来仏の原智恵子を私達のグループに連れて来た。

その夏、川添君は再び紺碧の海岸カンヌに過ごして生涯の友キャパを知る。

 私が初めてアンドレ—Robert Capa—に邂ぐりあったのは1935年、南仏カンヌの夏のある日だった。

 キャパは、若く眼に勝気な光をたたえた美しい女性と一緒だった。それは愛人ゲルダであった。

 輝いた太陽の自由な空の下では、ゆきずりのひととも兄弟のようになる。あの若い日の風の中に、私達もパリに帰ってからは、始終一緒に歩き、議論し、食事し、そしていつの間にか、私のアトリエにころがり込んで、生活を共にする日が続くようになった。

 彼が、キャパの“ちょっとピンぼけ”の訳書の巻末に回想するそのアトリエが前に述べたアベニュー・レイユの2階であった。

 その頃、キャパとの間の感情の疎通を訴えるゲルダは、川添君の人間的魅力にそこはかとない慕情を胸にして苦しんだりしながら、これもポーランドからパリに自由を求めて来た写真家シム—David Seymour—等とグループを作って報道写真活動に毎日をおくる。

[シムは戦後、キャパとマグナムを創設、キャパの不慮の死のあとマグナムを主宰するが、数月後、スエズの動乱の取材中流弾に斃れる]

 このゲルダは、スペインの内乱を通じてキャパの名が、戦争のすべての証言する報道写真家として世界の注目を集めている時、バレンシアの戦線で、退却する友軍の戦車のわだちの下で、赤く燃ゆる花のような若い一生を終える。

 スペインの内乱は、1936年の夏も終ろうとする時、北方スペイン領モロッコからジブラルタル海峡を渡って攻めのぼるフランコ将軍に火ぶたがきられる。

 その同じ年、ベルリンは、ヒトラーの宣伝相ゲッペルスの演出の下で、ベルリンオリンピック“民族の祭典”が、華やかなページェントを繰り拡げる。

 キャパの交友から、当時ナチズムに抗して、パリの文化人の中に結成される人民戦線の“文化擁護の運動”、デファンス・ド・ラ・キュルチュールの人人、ルイ・アラゴン、ポール・ニザン、ジャン・カッス等の作家。映画評論家レオン・ムシュナック、そして第二次大戦後まで、交渉を待つ映画監督のジャン・ルノワールと協力する。

 その頃シャンゼリゼーに、日仏映画交流を目的として“フィルム・エリオス社”を創設、毎日新聞のニュース映画交換の件で、私もその中にデスクを置く。

 当時、彼がフランスに紹介した日本映画は、“五人の斥候兵”、“風の又三郎”等、フランスからは、“格子なき牢獄”、ジャン・ルノワールの“大いなる幻影”等を日本に送る。しかし、1938年代の日本では“大いなる幻影”は、反戦的思想と独逸の捕虜収容所々長・フォン・ストロハイムが演ずる貴族将校が、ナチス的愛国主義に反するという駐日独逸大使館の抗議で遂に第二次大戦後迄上映されなかった。

 1937年、川添君はピアニスト原智恵子と結婚する、そしてボードレールやモーパッサンが眠るモンパルナス墓地を真下に見下ろすフロワ・ド・ヴォ―街22のアトリエに居を定める、そしてその一階上に時を同じくしてキャパが住みつくことになる。

 川添君がチェコのカメラマン、ハインリッヒ・バラッシュを連れて、日本で記録映画“白鷺城”を製作している頃、スペイン戦線から帰ってきたキャパは、赤い中国の取材をライフに依頼される。それはモンパルナスのカフェードームの町角で焼栗の香ばしい匂いも過ぎ去ろうとする12月であった。

 彼は最愛のゲルダも一行に加える交渉に成功した喜びを共に分かたんものとバルセロナのホテルに電話する。しかし残念なことに彼女はヴァレンシヤの戦線で、明朝バルセロナに引き上げるということであった。

 彼はせめてシロー(キャパや私はその頃川添君のことをそうよんでいた)が居たらなとこぼすのであった。余儀なく私達はただ2人で、モンパルナス周辺をめぐって淋しい祝杯を重ねた。

 翌朝、ゲルダの不慮の悲劇を報せて来たのはス・ソワール Ce Soir のルイ・アラゴンの電話であった。キャパは三日三晩ベッドに泣き伏して、私が持ってゆく果物にすら手をふれなかった。東京の川添君からの “この悲しみと考えられない衝撃を君と共に” といった意味の電報をキャパは涙で濡らした。

 1939年、帰国を決意、ベルリン、ワルシャワ、ナチスの軍靴に踏みにじられつつあったプラハやウィーンを廻ってローマについた私のホテルに、川添君のヴェニスからの電話がはいった。

 彼はヴェニスの映画祭ビエンナーレの日本代表となり、私に早速手伝いに来て欲しいとのことであった。

 南イタリーのぺスタムの遺跡等を訪れる予定を余儀なく変更、双発の飛行機でヴェニスに飛び、リドのホテルに乗りこむ。日本から参加の映画は “上海陸戦隊” 長塚節の “土” 。イタリヤの女性記者と日本映画の紹介文を準備中、愈々(いよいよ)映画祭の幕は開かれ、ドイツ代表団にはナチスの宣伝相ゲッペルス、まったく予想外にはにかみやで物静かな態度に川添君と2人で不思議な感慨をおぼえたことが思い出される。

 川添君はこの時、日本で行なわれる芸術評価の偏向性をしみじみとこぼしたのであった。このビエンナーレは、毎夜カジノに附属した劇場で各国の参加映画が上映され、階上のバルコニーは各国代表や役員の席が並び、階下は一般大衆に公開される。

 その年のアメリカはディズニーの “白雪姫” 。そのようなフィルム上映の時は、階下の観衆の喜びが階上に伝わり、幕が下りると階下からもブラボーの祝いの言葉が聞かれる次第。ところで日本の “土” 上映の時、階下で口笛がなったりする中に、まったく静寂になる。大衆も感じいったかと思う間もなく、映画は終わり、場内が明るくなると階上では上映映画国の代表に外交的儀礼の拍手、日本代表は起立してその賛辞に応答。ところで階下を眺めると、之(これ)はしたり、一般観衆は映写中退去してまったく無人の客席が白々しい。まことに坐り心地の悪さ、これにつきるのが日本代表の立場だったのである。

 その時以来川添君は日本にしかない本当にすぐれたもの、美しい文化をもっとも立派な、完璧な様式で世界に紹介し、同時に西方の文化の中で一番すぐれたもの、美しいものを日本の人々に持ち来すことに生涯をかけるようになるのであった。

 1940年春、戦乱が激化するヨーロッパを後に、キャパのブタペストの時代の友人、ハンガリーの写真家フランシス・ハールを伴って帰国。

 同年、後に離別するピアニスト原智恵子、世界の檜舞台で蝶々夫人を歌った三浦環女史、写真のハール、コルビュジェ高弟の建築家坂倉準三氏等を結集し「芸術研究所クラブ・スメル」を私達は赤坂檜町に設立する。

 

 1941年12月、日本はハワイ急襲をもって第二次大戦に突入する。

 彼は、キャパを偲んで、“彼は大西洋を渡り弟コーネルや母のいるアメリカ大陸へ、私は印度洋を廻って日本へ帰る。止むことを知らぬ世界の激しい動きは、戦乱を太平洋に波及、キャパと互いに相争う対決の場に置く・・・”と書いている。戦争の間を通じ、彼は東と西の矛盾の中に、絶えず遙かなる世界のかなたの鼓動を身近に感じつつ行動するのであった。

 

後半に続く

 

 

ー「キャンティの30年」(1990刊行)P.12-18より

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